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④道元および禅宗関係書籍
道元のついて何かを語り得る知識を残念ながら持ち合わせていない
ですので、気功に親しんできたものとして、
仏教の瞑想を止(サマタ瞑想)と観(ヴィパッサナー瞑想)に分ける事ができます。止(サマタ瞑想)はその字の通り、千々に乱れる日常的な心の動きを止めて集中する事です。呼吸瞑想を例にとると、呼吸を一つずつ「吸っている」「吐いている」と意識しながら行なっていきます。それでも、初心者はかならず集中が途切れて何か別の事を考えてしまいます。その場合には、「他の事を考えてしまったな」と気づいてから、またもとの呼吸に集中していきます。この動作を繰り返していくと、日常的な心の働きが静まって、更により深層の静まりに入っていくことができます。
観とは、その時々に心身に起こっている事をまさに、起こっているその時々に気づいていくことです。現代的に言えば、「自意識や自らの行動を常にモニター(メタ認知)している事」というふうに表現する事ができるでしょう。これを身に付けていくと、過去にこだわったり、未来を思い悩んだりする事なく、 「今、ここ」を心を込めて(マインドフルに)生きていけるという事になるらしいです。
では、坐禅はどの瞑想にあたるのでしょう。やり方としては、止と観の双方を含むと言えるでしょう。マインドフルネス瞑想か瞑想により、より注意深い覚醒状態を目指す事を目的としていると言えるならば、注意深い覚醒状態が目的であり、瞑想はそれに至る為の手段です。ところが、坐禅(曹洞宗)は、悟りが目的で坐禅がそれに至る手段であるという様な、目的と手段の連関に無いのです。
坐禅の目的は、坐禅そのものなのです。道元は宋で参禅して居た時に、「禅定はすべからく心身脱落なるべし」という言葉を聞いて大悟します。心身脱落しているとは悟りの境地に心身が溶け込んでいる状態です。坐禅即悟りの立場です。悟っている仏であるからこそ坐禅によって修行ができる。悟っている仏であるからこそ坐禅によって悟り境地に至ることができると言う、修行と悟りが同一のものであるとの立場となるのてす。
『現代語訳正法眼蔵』(全12巻、西嶋和夫訳 金沢文庫、1970年)
『現代語訳 正法眼蔵』(石井恭二訓読・注釈・訳、河出書房新社(普及版も刊)/河出文庫、2004年)
『永平廣録』大谷哲夫訓読・注釈・訳、河出書房新社 上中下、2005年)
『道元和尚廣録』(寺田透訳、筑摩書房 上下、1995年)
『道元「永平広録・頌古」』(大谷哲夫全訳注、同上)
『正法眼蔵』『永平広録』用語辞典 (大谷哲夫 大法輪閣 2012年)
『道元・日々の生きかた 典座教訓・赴粥飯法・衆寮箴規』(佐藤達全、大法輪閣、2001年)
『道元禅師 宝慶記 現代語訳・註』(水野弥穂子、大法輪閣、2012年)
『道元禅師全集 原文対照現代語訳』 (全17巻、鏡島元隆監修、水野弥穂子・石井修道・角田泰隆ほか訳註、春秋社、1999-2013年)
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